2009年12月の保育
−大切な贈り物−
11月29日から、教会は待降節という季節に入りました。これは、クリスマスである降誕祭の「降」を待つ「待」という意味です。
日本でもおなじみのクリスマスですが、きちんと言うと降誕祭。イエス・キリストが降誕されたお祝いです。
天から降ってきたような、まるで雪か雨のようです。でも、そのとおり、イエスさまは降ってくるんです。私たちのところへ。
クリスマスには、プレゼントがつきものです。お父さん、お母さんから子どもたちへ、おじいちゃん、おばあちゃんから孫たちへ。そういう目に見えるプレゼントだけではなくて、私たちは何とたくさんの贈り物を毎日の生活でいただいているでしょうか。
例えば、今日、出会って、言葉を交わした人。あるいは、毎日出会っている園の先生、スクールバスの運転手さん、ご近所のおじいちゃん、おばあちゃん、その人のひと言が心を励ましたなら・・・、そのなにげないひと言や優しい思いが大きなプレゼントとなるのではないでしょうか。
ただ、その一つひとつの出会いを「自分への贈り物」と思えるか。言い換えるなら、日々の出会いを私たちは感謝をもって受け取っているだろうか。毎日だから、当たり前になっているかもしれないけれども、その一人ひとりが、もしかしたら今の私たちを支えてくれている、大切な存在なのかもしれません。
それと同時に私たちの何気ない言葉が誰かを励まし、支えになっているかもしれません。
いただいたり、さしあげたり。その両方が、どういうふうに運ばれていくのかはわかりませんが、私たちの中にある真実な思い、心というのは、どんなに遠くても、きちんと運ばれていき、お互いが「あなたは私にとって何よりの贈り物ですよ」と思えるほどに深い思いを運んでくれるに違いない。
そう思っています。